獲物

 闇の中で、蛙どもの鳴く声だけが響いていた。
 老刑事は深い叢の中に身を潜めたまま、ときどき曲げた膝を片方ずつ静かに伸ばして、脚の感覚がなくなるのを防いでいた。いざというときに両足が使い物にならないのでは話にならない。特に今夜のような場合は文字通り致命的だ。
 上着の下に防刃ベストとショルダーホルスターを着けているせいで暑苦しいことこの上ないし、隣では若い刑事が藪蚊に刺されるたびに小さな声で悪態をつく。すべてが気に障ることばかりだったが、かといって目の前の光景から視線を逸らすつもりもなかった。
 彼らの眼前には一周600メートルほどの小さな池が広がり、周囲は深い林に囲まれている。木々の間にはふたりのほかにも数名の刑事が間隔を置いて身を隠していた。
 池の周囲に巡らされた散歩道は、右手に見える小高い丘の中腹を横切りつつ登ってゆく舗装路へと繋がっていて、さらに丘の向こう側にある広大な運動公園へと続いていた。
 以前は散歩やジョギングをする市民の姿が絶えない場所だったが、いまはすべてが夜の闇に覆い隠され、数ヶ所に設けられた常夜灯の淡い光だけが風景のごく一部をぼんやりと照らし出している。池の中央にある猫の額ほどの小島が、暗い水面のうえにひときわ黒い影となって浮かんでいた。
 不意に耳の中のイヤフォンが空電音を立て、監視対象が運動公園内を無事に通過し丘を下る道へ向かったことを告げた。まもなく、目印の白いヘアバンドに白いトレーニングウェアを着た女性の姿が視界に入ってくるだろう。
 老刑事は胃の中で不安と怒りの塊が膨れるのを感じた。どうしてもこの作戦が最上の策とは思えない。二名を殺害した連続殺人犯相手に女性警察官を囮に使うとは。だが今の状況に追い込まれたのは自分たちの責任であることも分かっていた。数ヶ月を費やした捜査はすべて空振りに終わり、もともと大して高いとは言えない警察の信用は完全に地に落ちている。その代償としてひとりの若い女性が志願して危険に身を投じ、男たちは全身を蚊に食われながら黙ってそれを見守る羽目に陥っていた。

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