獲物

 闇の中で、蛙どもの鳴く声だけが響いていた。
 老刑事は深い叢の中に身を潜めたまま、ときどき曲げた膝を片方ずつ静かに伸ばして、脚の感覚がなくなるのを防いでいた。いざというときに両足が使い物にならないのでは話にならない。特に今夜のような場合は文字通り致命的だ。
 上着の下に防刃ベストとショルダーホルスターを着けているせいで暑苦しいことこの上ないし、隣では若い刑事が藪蚊に刺されるたびに小さな声で悪態をつく。すべてが気に障ることばかりだったが、かといって目の前の光景から視線を逸らすつもりもなかった。
 彼らの眼前には一周600メートルほどの小さな池が広がり、周囲は深い林に囲まれている。木々の間にはふたりのほかにも数名の刑事が間隔を置いて身を隠していた。
 池の周囲に巡らされた散歩道は、右手に見える小高い丘の中腹を横切りつつ登ってゆく舗装路へと繋がっていて、さらに丘の向こう側にある広大な運動公園へと続いていた。
 以前は散歩やジョギングをする市民の姿が絶えない場所だったが、いまはすべてが夜の闇に覆い隠され、数ヶ所に設けられた常夜灯の淡い光だけが風景のごく一部をぼんやりと照らし出している。池の中央にある猫の額ほどの小島が、暗い水面のうえにひときわ黒い影となって浮かんでいた。
 不意に耳の中のイヤフォンが空電音を立て、監視対象が運動公園内を無事に通過し丘を下る道へ向かったことを告げた。まもなく、目印の白いヘアバンドに白いトレーニングウェアを着た女性の姿が視界に入ってくるだろう。
 老刑事は胃の中で不安と怒りの塊が膨れるのを感じた。どうしてもこの作戦が最上の策とは思えない。二名を殺害した連続殺人犯相手に女性警察官を囮に使うとは。だが今の状況に追い込まれたのは自分たちの責任であることも分かっていた。数ヶ月を費やした捜査はすべて空振りに終わり、もともと大して高いとは言えない警察の信用は完全に地に落ちている。その代償としてひとりの若い女性が志願して危険に身を投じ、男たちは全身を蚊に食われながら黙ってそれを見守る羽目に陥っていた。

 
 最初の犠牲者は夜の公園でのウォーキングを日課にしていた25歳のOLだった。二日前の暴風雨で破損した池の周囲の木柵を修理するため、早朝に訪れた修理業者が散歩道上に無造作に転がされた死体を発見した。不運なその男は衝撃から立ち直れずにいまでも病院のベッドの上にいる。
 司法解剖の結果、死因は外傷性ショック死と判断された。頭部が胴体からほとんどもぎ取られるほどの強力な一撃が致命傷で、何があったのかわからないままに即死しただろうと法医学者は報告書に付記していたが、現場で遺体の状況をつぶさに見ていた老刑事はその言葉が事実であることを願った。
 当初、その殺害方法や遺体に性的暴行の痕跡がなかったことから捜査は怨恨の線で進められ、容疑者は早い段階で浮かぶだろうという楽観的なムードが刑事たちの間にはあったが、ほどなくしてその期待は裏切られた。男性関係や友人関係、家族に仕事、すべての面で彼女に憎悪を抱く人物を見つけることはできず、現場から加害者の痕跡が一切発見されなかったことも捜査の迷走に拍車をかけた。
過去の事件で同様の手口を探し、周辺住民や公園利用者に不審人物の情報を問い、犯罪歴のある人間を洗い出し…その最中に、第二の殺人が行われた。

 池の周辺は事件後まもなく封鎖が解かれたが、制服警官による公園内のパトロールは続けられていた。最初の殺人から三週間が経過した金曜の夜、巡回中の警官のもとに数人の若者が助けを求め、友人のひとりが池のほうへ行ったきり戻ってこないと口々に訴えた。
 半信半疑で様子を見に行った警官が見たものは、池の柵にもたれるようにして座り、首から上が180度真後ろを向いた少女の姿だった。流れ落ちる鮮血が凶行からさして時間が経っていないことを示していた。
 緊急配備が敷かれ、公園の内外で徹底的な捜索が行われた。警察犬が何頭も投入されたが、今回も犯人特定につながる物証はなにひとつ得られなかった。
 若者たちは近所の高校に通う生徒で少女は彼らの同級生だった。肝試しに殺人現場の池に行ってみようという話になり、警官の目を盗んで夜の公園に忍び込んだものの、他のメンバーが怖気づくなかで彼女だけがひとり池へと向かった、という全員のほぼ一致した証言が得られた。池に着いた少女から携帯電話で連絡があり、特に変わったところはない、と言いかけたところで悲鳴とともに通話が途切れたとのことだった。たしかに少女の遺体の傍らには電源が入ったままの携帯電話が落ちていた。
 この第二の殺人は、最初の事件よりも遥かに大きな波紋を呼んだ。
 マスコミは警察の初動捜査のミスと公園の警備体制に問題があったことを大きく報じ、公園には全面的に立ち入り禁止の措置が取られた。しかし捜査が長引き目立った成果が挙げられない一方で、事件から時間が経つにつれて今度は市当局から公園の利用制限を緩和してほしいとの要求が寄せられた。それが市民の要望だそうだ。
 それぞれの思惑が絡みあった結果、最終的に下された結論がこの囮作戦だった。無辜の市民が死ぬよりは警察官が死んだほうがいくらかましだと考えたのだろう。それで犯人が逮捕できるなら御の字だ。
 すでに新聞やテレビを通じ、今週から運動公園を週末のみ開放する旨が広く告知されていた。パトロールも以前より目立たない方法に切り替えられている。
 殺人者が再度姿を現す保障はどこにもなかったが、この犯人は必ずまた誰かを殺すだろうという確信が老刑事にはあった。相手は計算や理屈で動くのではなく本能のおもむくままに獲物を狙う。そしてこの池こそが奴の狩猟場だ。おれたちは彼女を生餌としてその只中に放り込もうとしている。なにもかもが気に入らないことばかりだ。
 そもそも犯人は本当に人間なのだろうか?いったいどうすれば何の痕跡も残さずに一撃で人の頭を引きちぎったり、首の骨をねじ切ることができるというのか?
 
 不意に丘のうえに白い人影が姿を現し、老刑事の黙考は断ち切られた。レンズに常夜灯の光が反射しないように注意しつつ小型双眼鏡を覗くと、見覚えのある姿の女性が視界に入った。白のヘアバンドに白のウェア。彼女だ。
「目標視認」無線機に囁く。罠の入り口が閉じられようとしている。問題は狩られるのが果たしてどちらかということだ。

 女性警官が軽い足取りで丘の傾斜路を下るにつれて、レンズの中の姿も大きくなってゆく。トレーニングウェアの下で胸のふくらみが揺れているのが見て取れた。
 くそっ、彼女は服の下に防刃ベストを着ていないのか?打ち合わせと話が違う。
 だがいまさら中止することはできない。彼女が両耳にはめている白いイヤフォンはiPodではなく小型の受信機につながっている。こちらの通信内容は聞こえるが、彼女の声はこちらには聞こえない。その他に彼女は防犯ブザーと催涙スプレーを身に着けているし、もちろん逮捕術にも長けているが、できればそれらを用いるような状況になる前に犯人の身柄を押さえたかった。さらに欲を言えばその場で射殺したいところだ。
 しかしいまのところ、池の周辺に怪しい動きは見られない。
 彼女は傾斜路を下り終え、池のほとりにある休憩用の東屋の前で足を止めた。常夜灯の光の真下で小休止しながら柔軟体操を行っている。まるでどこかに潜んでいる殺人者に自分の姿を見せつけるかのように。まったくいい度胸をしている。
 しばらくの間をおいて、彼女はいよいよ散歩道の上を走り始めた。予定通りに時計回りの方向に池を回って、最初に老刑事たちの前を通過する。少しずつ彼女の白い姿が常夜灯の光の輪から外れ、夜の中へと消えてゆく。次に照明の下を通るのはずっと先だ。そのあいだは暗闇の中を走らねばならない。
 老刑事はまた強い不安に襲われた。林の端から散歩道までは10m近い距離があるとはいえ、間を遮るものは何もない。仮に誰かが木々の間から飛び出してきたとして彼女に襲いかかる前に取り押さえられるだろうか。警棒代わりに用意した長いマグライトを握りしめる手が汗で濡れていた。
 ふと、視界の隅でなにかが動いた。
 沼の中心、島影のあるあたりでなにか黒いものが動いたような気がした。だが暗すぎて見通すことができない。もしかすると緊張が生んだ目の錯覚かもしれなかった。
 しかし、そうではない可能性もある。
 女性警官はすでに照明の届かない場所まで達し、かすかに白いウェアが闇に浮かぶ程度しか視認できない。こころなしかさっきより速いペースで池の外縁にそって膨らんだ道路をこちらへ向かっている。おそらく彼女の全神経は左手の林の中と背後に向けられているはずだ。だが、相手がもし池の方向から襲ってきたとしたら…。
 不意に水音が響いた。池の中で魚が跳ねたようだ。魚?この池にそんな大きな魚がいただろうか。水面のさざ波がわずかな光を反射している。
 視線を戻して、彼女の姿を濃い闇の中に探した。どこにいる?見えない。だがもうじき目の前を通過するはずだ。
 一秒、二秒。なにも起きなかった。悲鳴も防犯ブザーの音も聞こえない。彼女も姿を現わさない。
「こちらA班。目標が見えない、誰か視認できるか?」老刑事は無線で尋ねた。
“こちらB班、目標視認できない”イヤフォン越しに緊迫した声が聞こえた。“こちらC班、いったいなにが…”
「全員かかれ!」老刑事は叫ぶなり耳からイヤフォンをむしりとった。若い刑事が一足先に叢から飛び出したかと思うと、その途端に脚がもつれて転倒した。マグライトを手にした老刑事がその頭上を飛び越えた。心臓が早鐘を打ち、膝が悲鳴を上げるのを必死に抑えながら、彼女を飲み込んだままの暗闇へ転げるように突進した。ほんの数十メートルの距離が永遠のように長く感じられる。四方から駆けてくる刑事たちの足音が聞こえた。
 ライトのスイッチを押すと光の輪が地面の上を走って、散歩道の傍らに転がっている白と赤と黄色の物体をはっきりと照らし出した。ほんの一瞬の間だったが、その光景は写真のように老刑事の脳裏に焼きついた。白は彼女の服の色。赤は彼女の血の色。そして黄色は彼女の上にのしかかっている“それ”の色だった。
 小柄な人間ほどの大きさの“それ”は両生類のように濁った黄色の皮膚をぬらぬらと光らせ、血まみれの彼女の首を胴体からもぎ取ろうとしている腕には四本の長い指を備えていたが、濡れた長い髪を振り乱したその頭はぞっとするほど人間の女そっくりだった。そして瞼のない黒い眼球がこちらを見た次の瞬間、かき消すようにして“それ”は姿を消した。
 大きな物体が水中に落下する音が響いて、反射的に老刑事はライトの光を池の水面へと向けると、巨大な波紋が広がる中心を目がけて.38口径の弾丸を残らず撃ち込んだ。だが、なにも浮かび上がってくるものはなかった。
 背後で、誰かが救急車を呼べと狂ったように叫んでいた。


 灰色の空が明けるころ、静かに雨が降り出した。
 公園内は昨夜から警官たちで溢れかえったままだ。老刑事は濡れるのも構わずに立ち尽くし、無言で池の水面を見つめていた。ボートとダイバーによる水中探査は水底に厚く積もった泥のせいで成果を上げていない。
 水上のボートの一隻を呼び寄せて自ら乗り込むと、老刑事は小島の捜索を指示した。
 広さ2メートル四方の島には低木と雑草が生い茂っているだけで、人の隠れるような場所はない。それでも濡れた茂みの中を探っていた鑑識員のひとりが何かを見つけた。
 老刑事が低木の陰を覗き込むと、そこには半ば朽ち果てた小さな祠があった。切妻屋根も扉も崩れ落ちて内部が露わになっている。中に祭られていたのは掌に乗るほどの大きさの石像だった。蛙に似た何かをかたどったその像を手にとって裏返すと台座の底に文字が彫られていたが、いまではすっかり摩滅して読み取れなくなっていた。
 老刑事はしばらくその石像を手に黙り込んでいたが、やがて誰にも悟られないようにそっと像を上着のポケットにすべり込ませた。
 あとで市の公園管理課に尋ねてみたが、彼らはそこに祠があったことすら知らなかった。公園を造成した際に古くからあった池の周囲を整備して散歩道をつけただけで、小島については手つかずのままだということだった。


 現場の捜索は三日間続けられた後に打ち切りとなった。
 それからほどなくして老刑事は辞表を提出した。上司は慰留の言葉をかけたが、内心では誰かが女性警官の死の責任を取らなければならず、それが自分ではなかったことに安堵していた。
 他の同僚たちも彼が職場を去ることについては何も言わなかったが、あの若い刑事だけは、惨劇のあった翌日の夜に偶然目撃した光景を思い出していた。人気のない警察署の裏手で老刑事がひとりハンマーを振るい、地面の上の小さな何かを粉々に打ち砕いている姿を。だが彼はそのことを誰にも告げなかった。

 三件の殺人はいまでも未解決のままとなっている。
 運動公園から池へと通じる道は封鎖され、その後二度と事件が起きることはなかった。